平成17年(ワ)第10884号 損害賠償(医)請求事件
原告 間下浩之 外1名
被告 (財)日本心臓血圧研究振興会 外4名
準備書面1
2005年12月19日
東京地方裁判所民事第35部合A3係 御中
原告ら訴訟代理人
原告らは,本準備書面において,被告ら第1準備書面のうち「第2 本件診療の経過」,「第3 被告らの主張」について認否反論を行う。但し,心電図モニターの装着目的及び監視義務,対応義務については,「第1 請求の原因に対する答弁」にも言及されているので必要に応じて反論を行う。また,心房細動に対する塞栓症予防義務について主張を補充する。
第1 本件診療の経過について(被告ら第1準備書面の「第2」,11頁以降)
1 本件入院までの経過
「(1)〜(4)」
昭和55年12月26日に出生後,生後12日目に三尖弁閉鎖症等の診断にてBAS(バルーンカテーテルによる心房中隔裂開術)を受け,3歳10ヶ月時に左側ブレロック-タウシッヒ短絡手術(鎖骨下動脈-肺動脈吻合術)を受けたこと,6歳時にフォンタン手術(右房-主肺動脈人工血管吻合術)を受けたこと,その後月1回の割合で国立国際医療センターを受診するほか,年2〜3回の割合で榊原記念クリニックを受診して,経過観察を受けてきたことは,概ね認める。
「(5)」,「(6)」
平成12年12月(フォンタン術後13年)に軽度チアノーゼが認められるようになったこと,平成14年3月(フォンタン術後15年)に肺血流シンチ検査にて,左肺と右肺の血流量に差異があり,右肺血流量が有意に少ないことが認められたことについては,不知。原カルテによる確認を要する。
被告病院より,心臓カテーテル検査を勧められたことは,認める。
「(7)」
平成15年3月7日,被告病院にて,心臓カテーテル検査等の諸検査が施行されたことは認める。諸検査の結果,医師団の診断内容,及び治療方針の詳細については,不知。原カルテによる確認を要する。
平成15年頃から,浮腫,不整脈が時々認められるようになってきたことについては,認める。平成15年5月から不整脈治療のためワソラン等の内服を始めた。
「(8)」
平成16年3月15日から17日にかけて京都旅行をした後,下腿浮腫が出現したことは,認める。18日は自宅で療養していたとの点については,認める(但し,自宅でいつもどおり過ごしていたというもの)。夕方に大腿,下腿が著名に腫れ,翌19日は起床後顔も腫れてきたため,国立国際医療センター外来を受診したこと,チアノーゼ,心房細動,心拡大が認められたため,榊原記念クリニックを受診し,同日夕方に被告病院に入院したことについては,認める。
この日の入院が「緊急入院」であったことは,カルテに記載されている(乙A1・入院診療録,「診療要約」2頁,「その他記録」23頁)。
また,智亮が,同月24日に予定されていた大学の卒業式への出席を希望していたことは事実であるが,出席を認めるべきか否かの医学的判断はあくまでも被告病院側がなすべきことは言うまでもない。被告病院は適切な医学的診断に基づいて,その内容を患者に説明する義務を負う。例えば,塞栓症等の重大なリスクがあるのであれば,卒業式への出席を認めるべきではないし,それを説明しない限り智亮は自己決定の機会を失われているのである。ところが,被告らは塞栓症等のリスクについて,智亮やその家族に対して一切説明していなかった。
2 本件入院後の経過
(1) 平成16年3月19日
ア 入院時の症状
午後4時に被告病院に入院した際,下腿に著名な浮腫がみられ,チアノーゼがあったことは認める。心雑音,呼吸音については不知。本人及び母親が,「前年の秋ごろから時々浮腫がみられるようになり,本年2月にも浮腫が出現し,そのような場合は安静を指示されていた」と医師に説明したことは,認める。
イ 検査所見
入院時に,心電図検査,心臓超音波検査及び血液検査が施行されたことは,認める。しかし,被告病院にてこの日胸部レントゲン検査が行なわれたか否かについては,不知。原告らは,同日国立国際医療センターで胸部レントゲン検査が行なわれ,その写真が被告病院に転送されたことしか知らない。
検査結果の概要については,不知。ただし,検査後,智亮及び原告らは,下大動脈及び右心房に拡大があること,心房細動が認められたことの説明を受けた(乙A1,「病状説明図(A)」5頁)。原告らは,心臓超音波検査の段階ですでに,血栓の存在について「否定できない」というような抽象的な可能性にとどまらず,かなり具体的な濃厚な疑いとして説明されていた。
【求釈明及び証拠提出】
@ 心電図検査,心臓超音波検査(心エコー),胸部レントゲン検査の各実施時刻及び血液検査の採血時刻を明らかにするよう求める。また,胸部レントゲン検査については写真が現像された時刻,血液検査については検査成績が判明した時刻を明らかにするよう求める。
A 心臓超音波検査については,動画データが記録として保存されているはずであるので,これをビデオとして証拠提出するよう求める。
ウ 症状診断と治療方針の策定
被告ら病院が,検査結果から心不全,不整脈及びチアノーゼの原因が右心房拡大による心房細動を生じ,その心房細動により心不全が悪化した可能性があると診断したことは,概ね認める。
主治医が当時行った判断と策定した治療方針の内容について。
@ 電気的除細動の実施が考えられたが,心内血栓の存在を確認するためMRI検査等を行うこととしたことについては,本人及び家族も当時説明を受けていた。
A TCPC手術への転換を行うべき時期に近づいていると判断していたこと,チアノーゼに対する手術,血栓が発見された場合の血栓除去手術を行う可能性もあり,これらを同時に行うのが適切と判断していたとの点は,不知。
本人及び家族は当時,TCPC手術がありうるという一応の説明は受けたが,手術を行うべき時期が近づいているといった切迫した説明はこのとき受けていない。チアノーゼや血栓除去手術を同時に行うか否かといった説明については全く受けていない。入院診療録(乙A1)にも,TCPC手術への転換を行なうべき時期に近づいている,チアノーゼ・血栓除去手術と同時に行なうのが適切とまでの治療方針は記載されていない。
B ワソランを継続投与するとの治療方針を立てたことについては概ね認める(入院前から投与されていたワソランを入院後も継続投与されていた。)。「脈拍数の調整のため」という説明はなかった。
C ワーファリンの内服を行うとしたことについては概ね認める。なお,ワーファリンの使用にあたり,適切な治療域が確保されていなかった点は後述する(本準備書面の第3)。
D 心不全に対しては,経口利尿剤であるラシックス,アルダクトンAを投与し,肺循環の改善及びチアノーゼの軽減を目的として酸素投与を行うこと,利尿による低カリウム血症予防のためアスパラKを投与するとしたことについては,概ね認める。ただし,利尿剤の投与にあたっては,塞栓症に十分配慮すべきとされている。
E チアノーゼの原因の検査のため,側副血行等の存在を確かめる必要と考えていたとの点は,不知。
エ 心電図テレメータの装着(装着目的,装着時の義務)
@ 24時間監視目的を明確に否定する被告の主張
心電図テレメータ(心電図モニタと同じ)の装着目的について,被告らは,「心房細動があったため,病棟での身体活動による心電図変化(心拍数や頻脈・除脈の程度)をホルター的に事後的に振り返って観察し,その後の治療に生かすためであった」(第1準備書面の2頁。下線部は原告ら。),と述べている。
さらに,心電図モニタ「装着の理由は,重篤な不整脈の有無を常時チェックし即時対応するためというようなものではな」い,と述べる(第1準備書面の16頁)。
このように,被告らは,心電図モニターの装着目的は,重篤な不整脈を常時監視し,アラームに対し即時対応するためであったことを明確に否定している。しかし,このような主張は到底成り立たない主張である。
A モニタリングの必要性
智亮は,フォンタン術後遠隔期にあり,心房細動を伴う心不全症状を示し,右心房が拡大していたため被告病院に緊急入院した。循環器疾患の救急時にある患者に対しては,医学上も心電図モニタを装着して,心拍数と不整脈を監視することは必須である(甲B10・『今日の循環器疾患治療指針』より「救急時の心電図・血行動態モニター」)。CCUの入室適応となるような致死的な重症不整脈の場合や,ベッドサイドモニターの場合に限って,監視義務があるかのように述べる被告らの主張は全くの誤りである。
智亮は心房粗動・心房細動とそれに伴う心不全により入院した。心房粗動は時に1:1房室伝道となり危険である。」(甲B12),「心室レートが高いと心室充満の時間が不足し,心拍出量の低下と酸素消費の増加を招き」,「胸部症状や心不全が生じますので,はやめにレートを落とす工夫をしなければなりません。」とされている(甲B17)。また,「心房粗動でもその持続により血栓塞栓症を少なからず合併する」(甲B12)。
心房細動においても,「心室レートコントロールにより心不全の発症を防止する」(甲B12)。「心室レートの高い心房細動は危険な病態」であり,「100/分を超える心拍数なら心室レートのコントロールは不良」とされる。心室レートの高くなると,心房収縮がないため心拍出量が低下するおそれがあるためである(甲17)。もうひとつの問題は,心房細動は血液の停滞により心房内で凝固系の亢進を招き,遊離した血栓による脳梗塞,四肢,腸管の動脈閉塞の危険がある(右心房内で血栓が生じていれば肺梗塞の危険がある)。
このように心房粗動・心房細動を伴う患者は,心電図モニタにより常時心拍監視を行なうの必要があるのである。とくに心肥大,心不全,心内血栓を伴う場合に突然死の危険が高まる。智亮の場合は,これらの要素を持っており,とくに注意して心電図モニタを監視する義務があったといえる。被告らは,準備書面の中で縷々,智亮の救命可能性が極めて低いことを述べているのであるが(第1準備書面の27頁),そのことはとりも直さず重篤な不整脈を即座にとらえて,迅速な対応を行うべき責任を病院側が負っていたことを意味するものである。
B レセプト上の記載
被告病院は,智亮に対する心電図モニター装着について,レセプト上「呼吸心拍監視2 3時間を超えた場合(1日につき) イ7日以内の場合 150点」と記載している(甲A4・レセプト)。この呼吸心拍監視は,「重篤な心機能脳障害若しくは呼吸機能障害を有する患者又はそのおそれがある患者に対して,常時監視を行なっている場合に算定されるものである」(甲B14・『保険診療便覧』より「D220 呼吸心拍監視」。下線部は原告ら)。
仮に,重篤な不整脈の有無をチェックするためではなく,単にホルター目的のみで心電図を検討したいのであれば,正しくホルター心電計を装着し,そのための保険請求を行わなければならないのは言うまでもない。
C 心電図モニター使用時の注意事項
使用場所と私用目的に応じて機種を選択するが,「一般に@CCUや手術室では心電図,呼吸波に加えて2チャンネル以上の圧波形を表示できる機種が必要である。A一般病室や患者搬送中の使用には,1〜2チャンネルの小型,簡便な機種が使いやすい。」(甲B15・『今日の救急治療指針』より「心電図モニター・除細動」)。
しかし,いずれにしろ心電図モニターを使用する際には,「不必要な警報の発生を減らし,本当に危険な状態を見逃さないことが,モニター活用の要点である」(甲B15)。そのためには,「不用意に警報を停止したままにしない」,「警報が発生した場合は,必ずベッドサイドに行き原因を確かめ,除去する,などの注意が必要である」(甲B15)。
心電図モニターを装着すると,自動警告装置がしばしばアーチファクト(心電図記録に入り込んで波形をゆがめたり,みえにくくするじゃまもの)を検出してアラームを鳴らすことがある。しかし,心電図モニターに関する教科書でも,「決してアラームを無視してはいけません。アラームがなったら,何はともあれ患者さんの様子をみにいきましょう。」,「大丈夫と思っても,アラームを無視してはいけません。」,「本当に大丈夫かどうか患者さんの様子をみに行きます。」と強調されている(甲16,甲18)。
被告らがこれらの注意義務を怠ったことは明白である。
D 監視義務を否定する被告病院のおどろくべき主張
結局,被告らが本件心電図モニターの装着目的をホルター目的だと強弁するのは,心電図モニターを常時監視し,アラームに対応する義務するという当然の義務を否定したいがためである(第1準備書面の5頁)。
被告病院は日本有数の循環器専門病院である。その病院でアラームが鳴ったまま医療従事者がそれに気がつかず,同室の患者に指摘されて65分後にはじめて気がつくという事態は,到底許されないことである。
ところが,被告病院はさらに重篤な循環器疾患の患者に対し,心電図モニターを装着しながら,心電図モニターを常時監視するという当然の義務そのものまで否定するに至った。驚くべき主張であり,言語道断の主張であると言わなければならない。
(2) 同年3月20日
体重,下腿浮腫あること等,概ね認めるが,詳細については不知。
MRIの実施について説明があったことは認める。
(3) 同年3月21日
浮腫が軽減してきたことは,概ね認める。詳細については不知。
(4) 同年3月22日
ア 浮腫の軽減等,病院内フリーとなったこと
浮腫が軽減してきたことについては,概ね認める。
「病院内フリー」となったとの点は,不知。家族は事故当日まで「病棟内フリー」と聞かされていた。
イ MRI検査
(ア) MRI検査の実施と巨大血栓の存在
同日行なわれたMRI検査の結果,右心房内に,右心房の前壁及び側壁下部に固着した,高さ約3cm,最大幅約6cmの大きさの血栓が発見されたことは概ね認める。ただし,家族にこの点の説明があったのは,本件事故後のことであった。
【求釈明・証拠提出】
@ 上記MRI写真を証拠として提出するよう求める。
A MRI検査の行なわれた時刻,検査の結果が判明した時刻について,釈明を求める。
B 証拠保全の際にMRI写真の全てが提出されていないと思われるので,手持ちの写真を全てを証拠として提出するよう求める。
(イ) 巨大血栓の性状
MRI画像上,「血栓の性状は,心房壁に接する面に茎はなく,血栓全体が心房壁にがっちりと付着した壁在性のものであ」ること,「他に遊離しやすい要因も認められ」ないこと,「血栓の可動性(心拍によって血栓が動いて移動すること)も認められなかった。」との点は,不知。
なお,「時間が経つにつれて壁在血栓の基部は器質化されて強固となるが,表層部では脆く,それが剥離して塞栓症を発症する危険性がある(甲B26・『血栓症−やさしく・くわしく・わかりやすく』117頁より「心房内血栓」)。
(ウ) 血栓表面の血流
「血栓の血液に接している面は平滑であり,右心房内の血液は血栓の前を滑らかに流れていた」との点は,不知。カルテ上,この点に触れた記載はない。
【求釈明・証拠提出】
いかなる根拠に基づいて上記の主張を述べているのか,釈明を求める。
ウ 血栓に対する医師団の判断及び対応
(ア) 塞栓症の可能性について
医師団が,上記の血栓が容易に剥離したり,塞栓症を起こすことはないものと判断したとの点は,不知。
【求釈明】
@ 「医師団」とは誰のことか。
A 「協議」とはいつ,誰が行なったものか。
上記判断の妥当性については,争う。前述のとおり,巨大血栓表面に新しい血栓が生じ,それが遊離して塞栓症を起こす危険はある(甲B26)。上記判断をもとに,塞栓症に対する確実な対策をとらなかったこと,到底妥当とはいえない。
(イ) 安静度,大学卒業式への出席について
血栓発見後も「病院内フリー」となった点は不知。そもそも病院内フリーになったということを原告らは知らされていない。
大学卒業式への出席について特に変更する必要はないとされたことについては,不知。その判断の妥当性も疑問である。血栓発見後は,塞栓症に対する十分な予防を行なうほか,巨大血栓の存在について病棟看護士に伝え,重篤な不整脈についての十分な安全管理,危急時の即応を指示する義務があった。仮に病院の体制上不可能だというのなら,ただちにそのような体制が可能な病棟(たとえばCCU)に移すべきであった。
(ウ) 緊急手術の必要について
緊急手術の必要もなく,今後においてTCPC手術や側副血行に対する手術が行われるときに,血栓摘出も同時に実施することで足りるとの判断,血栓融解療法は血栓の遊離を起こす危険があると判断した点については,不知。
(エ) MRI検査結果について
MRI検査結果について,智亮に伝えたか否かについては不知。原告らに伝えていないことは認める。
(5) 同年3月23日
ア 総合救急病棟の入院患者の状況
概ね認める。
ナースコーナーより当該トイレは目の前で,極めて近い場所にある(甲B8・写真撮影報告書,写真35〜38)。
病棟における入退院,病棟内転室,病棟変更の状況については,認める(病棟管理日誌(甲A1))。3人の入院患者のうち,2人は智亮と同じ4424号室への入院であった。
イ 看護師の勤務状況
看護体制が看護師3名,看護助手1名であったことは認める。
角口看護師,水木看護師,刈谷看護師,看護助手らの各勤務状況(当日の行動)については,不知。検討の上,必要があれば追って主張する。
第2 被告らの主張(被告ら準備書面1,第3)について
1 本件死亡原因について
(1) 心電図記録
ア 午前9時40分ころ
心拍数約150回/分の頻脈が発生したことは認める。「T波の顕著な増高」があること,急激な循環虚脱(末梢組織への有効な血流量が減少することによって臓器,組織の生理機能が障害されること)が招来されたことを示す,との点は,不知。
イ 午前9時41分
「T波の増高に加えて,正常であれば殆ど電圧変化が記録されないはずのST値も上昇している」,上記循環虚脱の結果として心筋虚血による心筋障害が招来されていることを示す,との点は不知。
ウ 午前9時46分
心拍数が40から50まで低下したことは認める。心筋虚血が改善されないために心機能全体がさらに低下したものによる,との点は不知。
エ 午前9時48分ころ
遅くとも午前9時48分頃には有効な心拍の形成が認められなくなり,午前9時55分以降は殆ど心停止の状態に至った,との点は認める。
(2) 発見時の状況
発見時の智亮の姿勢等は,不知。
(3) 死亡原因
被告らは,死亡原因について以下のア,イと推定している。この点については,概ね認める。
ア 肺梗塞
「排便時のいきみで右房圧が上昇し,右心房内に形成されていた血栓の表面が剥離して,右心房と肺動脈との吻合部に詰ったことにより肺梗塞を招来し,そのため血液が肺動脈へ流れなくなり,肺静脈から左心房,左心室,大動脈へも血液が流れなくなり,急激な心筋虚血を生じ,結果として心機能の極度の低下をもたらした。」
イ 排便時のいきみによる循環虚脱(迷走神経反射)
「排便時のいきみだけで,血栓・塞栓を解さずに,循環虚脱となった可能性も考えられる。すなわち智亮のように,肺循環のためのポンプがないフォンタン術後遠隔期状態で,右房の容積がかなり拡大して右房圧も高くなっている場合には,いきみにより胸腔内圧が上昇することによって,右房への静脈還流が低下し,そのため肺循環の維持が困難となり,その結果,左心房,左心室,大動脈へも血液が流れなくなり,循環虚脱を招来することも考えられる」。
この点については,死亡診断書(甲A3),入院診療録(乙A1,2頁「診療要約」)には,「迷走神経反射による除脈」との記載もある。
なお,事故当初は,肺梗塞よりも迷走神経反射の可能性をむしろ強く示唆されていた。例えば,村上医師は,3月23日,原告らに対して「僕は迷走神経反射だと思う。」と述べていた(5月11日も同様の発言をした。)。
2 因果関係
(1) 救命措置と循環障害への対応の必要性
被告らは,まず,「循環動態に障害がなく,重症不整脈(死に至る不正脈:心室細動,心室頻脈)のみが認められる患者であれば,心臓マッサージ,DC,薬剤投与,挿管等の救命措置を直ちに行えば,救命率は高い。」と述べるが,この点は概ね認める。
しかし,「循環障害があり,その結果として不整脈を呈している場合は,不整脈に対する対応だけでは意味がなく,循環障害に対する対応をしなくてはならない。」との点は,肺梗塞の場合と迷走神経反射とは同列に論じられない。
ア 排便時のいきみによる循環虚脱(迷走神経反射)の場合
排便時のいきみによる循環虚脱(迷走神経反射)の場合,循環障害といっても肺梗塞のように機械的閉塞が生じているわけではない。相対的循環血液量が一過性で減少して,一時的な循環障害が生じたに過ぎない。
排便時のいきみ自体はなくなっているのであるから,心臓マッサージ,昇圧剤等の救命措置を施して血流量を確保すれば救命は容易であったはずである。この点,被告らは,救命措置の有効性について,「心臓マッサージが効を奏する可能性は極めて低い」「結局,救命するためには人工心肺装置等の別の経路を使って循環を確保する必要がある」などと述べる。しかし,フォンタン術後であっても,心臓マッサージの効果がないなどということはない。
イ 肺梗塞の場合
(ア) 肺梗塞に対する治療
肺梗塞が生じた場合は,心肺蘇生法,PCPS(経皮的心肺補助法)を行いつつ,抗凝固療法(へパリン,ワーファリンの投与)により梗塞の拡大を防ぎ,梗塞を除去するため血栓融解療法(ウロキナーゼ,t-PAの投与),肺動脈血栓摘除術を行う(甲B13・『今日の循環器疾患治療指針 2版』より「肺塞栓症」,「図2 治療戦略」,甲B19,甲B20)。
また,臨床的には心臓マッサージにより血栓が移動し,塞栓が解消することは少なくない。心臓マッサージは,心肺蘇生だけでなく血栓の除去の点でも有効な場合がある。
智亮の場合は,ショック症状を呈したときは真っ先に肺梗塞が疑われるのであるから,確定診断を待つことなく直ちに心肺蘇生やPCPSと平行して血栓除去を試みるべきである。
(イ) 病院の「治療」行為
しかし,診療録によると,被告病院は,10時45分智亮をトイレで発見し,その場で心臓マッサージを開始し,挿管した。9時40分のアラームから1時間5分後,智亮の有効な心拍形成が認められなくなった9時48分から約1時間後,殆ど心停止の状態となった9時55分から50分後であったた。
その後,心臓マッサージ,アンビューパックにて加圧しながらCCUへ搬送,10時58分(発見から13分後),CCU入室,「圧ふれず心マ圧のみ」「HR(心拍)ほぼ(−),flat」であった。
11時10分(発見から25分後)「自己脈(+),すぐarrest(心停止)」となった。
11時16分にPCPSの導入を試み,11時25分にPCPSを開始(導入を試みてから9分後),心臓マッサージを中断した(乙A1,「PCPS記録」50頁,「CCU経過管理表」51〜53頁)。
このように,被告病院は,肺梗塞に対する必要な治療を全く怠っことは明らかである。速やかな心肺蘇生,PCPSの装着,抗凝固療法を怠り,血栓融解もしくは肺動脈血栓摘除術は最後まで行わなかった。
智亮が発見されたとき,すでに心肺停止後50分も経過していたというのであり,智亮はすでに死亡していたと評価してもおかしくない。当然,不審死であり,警察への届出や司法解剖の必要があった。ところが,被告病院は,血栓除去の試みを行わず,血栓がどこに生じたかの確認すらしなかった。真実救命するつもりもないのに,いたずらにPCPSを装着するなどして智亮の体に対する侵襲を加えたものとしか考えられない。
(ウ) 肺梗塞の救命可能性,予防の重要性
肺梗塞の救命可能性は確かに高いとはいえないが,予後は,「急性期(24〜72時間)をのりきれば安定し,良好な経過をとるので,この間全力をつくす必要がある」とされている(甲19・『今日の救急治療指針』(医学書院)より「肺血栓塞栓症」)。
予後判定の基準としては,「急性肺血栓塞栓症では,その約11%が発症後1時間以内に死亡するとされ,診断がつかず適切な治療が行われないと死亡率は30%前後と高率であるが,適切な治療により死亡率は6〜8%程度に低下する」(甲20・『今日の診断指針 第4版』(医学書院)より「肺塞栓症」)。
死亡率は高いとはいえ,決して救命可能性が低いわけではない。智亮の場合,診療録によれば,発見後CCUへの搬送に13分,PCPSの導入には9分を要している(短縮の余地もある)。適切な治療により救命できた可能性は十分あった。
(2) トイレでの予期しない急変
被告らは「しかも,本件の場合,トイレの中での予期しない急変である」,「仮に,セントラルモニターで午前9時40分に智亮に異常が生じたことが確認できたとしても,トイレからのナースコールがなければ,いろいろな場所を探索しなければならず…,トイレ内という居場所が確認できるまでに,ある程度の時間がかかることは避けられない」,「救命措置をするため,トイレから出してCCU等の設備が整った場所まで搬送しなければならず,これにも時間がかかる」と述べる(第1準備書面,28〜29頁)。
しかし,そもそも,本件では,被告らはアラームが鳴っているにもかかわらず,実際はなんの探索もしていないのが最大の問題である。問題のトイレは,ナースコーナーの目の前に位置し(甲B4・写真撮影報告書,甲B8・事故調査報告書),探索は容易である。
とくに智亮がベッドに不在だとすれば,トイレは第一に捜索すべき場所であった。院内発症の場合,肺梗塞をトイレで発症する例は多いのであり,アラームが鳴ったときにベッドの次にトイレにいるのではないかと想起することは決して特別なことではないのである(甲B13)。
被告看護師らは,「インターネットコーナー」にいると考えていた等と述べているが,実際にインターネットコーナーの探索を行っている訳でもなく,単に異常が発生するはずがないと高をくくっていただけなのである。
(3) 「9時43分頃には既に絶望的な状態」
被告らは,「9時43分頃には既に絶望的な状態に達して」いた,「9時40分の時点で,…救命措置を試みていたとしても,救命はおよそ不可能」などと述べているが(第1準備書面,29頁),「絶望的」とはいかなる意味か,全く不明である。9時43分は頻脈の状態にあったが,この時点で救命可能性は消滅していた(ゼロであった)とでもいうのであろうか。
被告らは,本件事故後作成した死亡診断書(甲A3)に,「トイレで除脈となっていたが,約50分気づかれなかった。除脈後直ちに心肺蘇生などの処置を施せば,死亡に至らなかった可能性がある」と記載している。被告らは,診断書に虚偽記載をしたというのであろうか。心肺蘇生措置を施し,かつ平行して循環障害への対応を行えば,救命の可能性は十分あった。
3 セントラルモニタへの対応
被告らは,セントラルモニターアラーム音への対応する義務はなかったと,第1準備書面29〜30頁に縷々述べているが,この点に対する反論は前述したとおりである。
第3 被告らの過失について(補充主張)
1 心房細動と抗血栓療法の重要性
(1) 塞栓症の予防義務
智亮の死亡原因として,肺梗塞が考えられること,仮に肺梗塞が生じた場合であっても,救命可能性が十分あり,過失と死亡との間に因果関係が認められることは前述したとおりである。
ところで,救命可能性(因果関係)について,仮に救命可能性が低い(因果関係が認められない)としても,そのことから直ちに被告らの責任が否定されることにはならない。
心房細動を有する患者が,血栓を生じ,塞栓症を発症する危険性が通常に比べて高いことは,医学的な常識となっている。とりわけ,心不全や心内血栓が存在する場合には塞栓症の予防を積極的に行なう必要がある。
被告らは,「9時43分頃には既に絶望的な状態に達して」いた,「9時40分の時点で,…救命措置を試みていたとしても,救命はおよそ不可能」などと述べる。このように塞栓症の危険性を強調することは,とりもなおさず被告らが塞栓症を十分に予防すべき義務があったことを示すものである。
(2) 心房細動・心房内血栓と塞栓症
肺梗塞(肺動脈塞栓症)は,血栓により肺動脈に塞栓を生じ,その支配領域の組織が壊死することをいう。智亮の場合は,仮に肺梗塞が生じたとすれば右心房内の血栓が剥離ないし遊離し右房と肺動脈との間の吻合部に塞栓を生じたものと考えられるというのが被告らの主張である。
ア 心房細動による心房内血栓の形成
病的血栓形成の3大要因として,@血管壁の性情変化(血管内皮の障害),A血流の変化(血液のうっ滞),B血液成分の変化(例えば多血症)の概念が提唱され,現在も支持されている。
心房細動では,心房の機械的収縮が消失するために心房内に血液がうっ滞し,血栓形成が促される(甲B26)。そのリスクは,心房の拡大,心房内に心内膜病変(弁膜症など)があるとより増大すると考えられている(甲30)。
これらリスク要因により左房内血栓を生じた場合は,壁在性の血栓が遊離すれば脳梗塞,腎や脾の塞栓,四肢動脈塞栓,末梢動脈の塞栓等塞栓症を生じ,浮遊する球状血栓が僧帽弁口を閉塞して突然死をきたすこともある。他方,右房内に血栓を生じ,それが遊離して肺塞栓(肺梗塞)をきたすこともある(甲B23・『プロメディカ』より「心房内血栓」)。
イ 血液凝固の連鎖反応
太い血管を閉塞するに足るような血栓は,血小板血栓(血小板の粘着・凝集による血栓。切り傷などで最初にできるもの。)ではなく,引き続いて血液凝固が起こり補強され成長したものである。
血液の凝固は,血液中に溶けて存在するフィブリノゲン(T因子)という蛋白が,不溶性のフィブリンという蛋白に変わり,それらがお互いに結合(重合)して繊維状になり,さらに網目状に析出してくることである。網目の間に赤血球,血小板などの血球が詰められ固まったものが血栓となる。フィブリノゲンを不溶性のフィブリンにするのが,トロンビンであり,トロンビンは循環血液中には存在せずにプロトロンビン(U因子)という前駆体から凝固の際に作り出される。血液が異物や血管内皮以外の組織に接触すると,数段階の凝固因子(Z,[,\,],X因子等)の連鎖反応を経て,プロトロンビンから血液凝固に十分な量のトロンビンが産生される(甲B25・『Warfarinの適正使用情報Q&A』より「作用機序」)。
この血液凝固反応は,最初の刺激(異物や組織因子との接触)がきわめてわずかであっても,いったん反応が始まると各反応を経るごとに凝固反応は増幅され,効率的に血液凝固が起こる。本来は止血という生体にとって重要な機能が十分に果たされるように備わった仕組みであるが,病的に血管内に血栓が生じた場合は,その血栓が成長しついには重大な塞栓症を生じる原因となる。
ウ 心房内血栓と塞栓症リスク
心房内血栓の表面は,このように新たな血栓を産生する危険性の高い場所である。心房内血栓は,それ自体が何らかの理由で剥離して塞栓症を起こす危険とともに,新しい血栓を生み出す点でも塞栓症の重大なリスク要因となる(甲B26)。
(3) 智亮の場合の高リスク
心房細動を伴う患者の塞栓症のリスクには様々あるが,智亮は塞栓症の高リスク群に属する。
ア フォンタン術後遠隔期の心不全,右心房拡大
第1に,智亮はフォンタン術後(遠隔期)にあった。フォンタン術後では,肺循環における右心室の役割を,拍動流ではなく右心房,大静脈血流でまかなうため,右心房,大静脈拡大,静脈うっ滞を生じる。この結果,心房頻脈,心房内血栓,凝固能亢進を生じやすい。また,フォンタン術は,右房と肺動脈とを人工血管によって吻合するものであり,吻合部は塞栓を生じやすい急所と考えられる。
さらに,心胸郭比(CTR)は56%と心拡大がみられ(50%以上が心拡大とされる),右房が著名に拡大し,下大静脈も拡張していた。うっ血性心不全の状態にあり,右房肺動脈の流れは緩慢であった(乙A1・入院診療録,2頁「診療要約」)。心拡大やうっ血性心不全がある場合の心房細動は,塞栓症を合併するリスクが高まる(甲B29,甲B30)。
イ 巨大血栓の存在
第2に,右心房内の巨大血栓の存在である。
智亮の場合,巨大血栓の存在が3月19日の心エコの段階で疑われ,3月22日のMRIにより巨大血栓の存在が確認されていた。その大きさは,被告らの主張によれば高さ約3cm,最大幅約6cmという巨大なものである。
ウ 利尿剤の投与
第3に,利尿剤の投与により,「急激な利尿が現れた場合,急速な血漿量減少,血液濃縮を来たし,血栓塞栓症を誘発する」ことがある(甲B27,甲B28)。
智亮は,入院翌日(3月20日)70kgあった体重が,21日には66.5kg,22日には64.5kgに減少していた。こうした体重減少に現れるような急速な血液濃縮が,塞栓症を誘発することは十分に考えられた。智亮は入院当日(3月19日),既にヘマトクリット(赤血球の容積率)は52.6%と正常値よりもやや高く多血症気味であった(乙A1・入院診療録23頁,43頁)。
2 塞栓症予防
(1) 治療域の設定
ア 塞栓症のリスク因子と抗血栓療法
心房細動の場合,うっ血性心不全等の塞栓症リスク因子がある場合には,抗血栓療法が適応となる。抗血栓療法として,どのような薬物をどのように投与するのか,についてはそれぞれのリスク因子に応じて行なわれるが,ハイリスクを有する場合には,積極的な抗凝固療法が求められ,ワーファリンが適応とされている(甲B12,甲B21,甲B22)。
イ 治療域の基準とトロンボテスト及びINR
(ア) 適切な治療域を維持する必要性
ワーファリンの投与による抗凝固の程度が足りなければ塞栓症の予防は不十分となる。他方,抗凝固の程度が行過ぎると出血を生じる。そこで,ワーファリンを投与する場合には,血液の抗凝固能をモニタリングし,適切な治療域を維持しなければならない。
(イ) トロンボテストとプロトロンビン時間,INR
ワーファリン療法で用いられる血液凝固能検査は,プロトロンビン時間(PT)トロンボテスト(TT)が用いられている。
トロンボテストは,ウシのトロンボプラスチン(脳組織を有機溶媒処理した懸濁液)を血液に加えて凝固時間を測定することにより,血漿中のプロトロンビン(U因子),Z因子,]因子(いずれも血液凝固因子)の低下を選択的にチェックする。凝固活性は通常パーセント(%)で表わされ,成人正常値は70〜130%である。
プロトロンビン時間(PT)は,ウサギのトロンボプラスチン(脳組織を有機溶媒処理した懸濁液)を血液に加えて凝固時間を測定する方法である。凝固時間が血漿中に存在するプロトロンビンに依存することから,血液の臨床検査に導入され,現在も最も基本的な血液凝固の検査法として常用されている。成人正常値は12〜15秒である。
しかし,プロトロンビン時間(PT)は,使用するトロンボプラスチン試薬の種類により力価が異なることから,どのような試薬を用いてもPTを比較できるようにINR(国際標準比率)という標記法が提案された。これは1977年にWHOが標準品としたヒト脳トロンボプラスチンを用いた場合のPT比に換算した値である。
ワーファリンの治療域については,欧米で相次いでガイドラインが定められており,INRが推奨されている。我が国では従来トロンボテストが多く用いられてきたが,次第にINRに取って代わられつつある。もっとも,治療域のモニタリングにはトロンボテストはなおも有効との見解もあり,INRとの併用を勧める見解も強い。 トロンボテストとINRとの間の相関関係について,目安となる表がある(甲B35)。
(ウ) 我が国における治療域の基準
日本循環器学会は,2001年に「心房細動治療(薬物)ガイドライン」を発表し,心房細動症例における抗血栓療法のガイドラインを設けた。このガイドラインは,欧米で発表された報告やランダム化比較試験を分析し,かつ我が国の研究結果や薬物使用の実態を加味して作成されたものである。ガイドラインは,基礎疾患別に抗血栓療法の指針を定めている(甲29・「日循ガイドラインとEBM」)
ガイドラインによれば,まず弁膜症性心房細動か非弁膜症性心房細動かによって分類する。この区別は,リウマチ性弁膜症,僧帽弁逸脱症,僧帽弁輪石灰化,あるいは生体弁ないし機械弁の弁置換を伴うか否かによる。弁膜症性であれば,ワーファリン(抗凝固薬)とともにアスピリン等(抗血小板薬)を併用する(甲29・2201頁「図1」)。
非弁膜症性心房細動の場合は,塞栓症のリスクに応じて抗凝固療法を行なう。塞栓症のリスクとしては,一過性脳虚血発作(TIA)や脳梗塞の既往,高血圧,糖尿病,冠動脈疾患,うっ血性心不全,年齢等が指摘されている。いずれかの危険因子に該当する場合は,抗凝固療法を考慮し,70歳未満ではINR2.0〜3.0を目標とする。70歳以上では出血性合併症のリスクが大きくなり,INR1.6未満では大梗塞を予防できないので,INR1.6〜2.6を目標とする(甲29・2002〜2003頁,「図2」)。
ワーファリンを製造販売しているエーザイは,医療関係者向けにワーファリンの適正使用情報を提供している。それによると,トロンボテストでの治療域は「10〜25%あるいは5〜15%とするものもあるが,概ね8〜15%前後とされている」。INRについては,参考値として代表的な治療域の勧告案(心房細動の場合は2.0〜3.0)を公表している(甲B35)。
そのほか,標準的な医学書(『治療指針』シリーズ(医学書院)等)において以下のような治療域が適当とされている。
・「INRによる治療域は,一般的にはINR2.0〜3.0」(甲B11)
・「INR値が1.5〜2.5に維持する」「海外では2.0〜3.0が推奨されている」(甲B12)
・「トロンボテスト15‐25%,INR値2.0‐3.0にコントロール」する(甲B21)。
・「INR値が2.0前後になるように投与量を調節」する(甲B22)
・「治療閾値はプロトロンビン時間比(INR:international normalized ratio)を2.0‐3.0,トロンボテスト(TT)8‐15%とされる。」(甲B37)
ウ 治療域の下限を下回らないことの重要性
治療域については,「INRが1.6を着ると急激に大梗塞が増加する」ため,その下限を下回らないことが極めて重要である(甲B29・2205頁「図5 INR毎の脳血管障害発症率」,同「図6 ワルファリン療法中の脳梗塞例における発症時INRと脳梗塞巣サイズ」)。
そこで,治療指針としても,「PT‐INR2‐2.5を目標にコントロールするが,特に人工弁(機械弁)置換術後,反復性の血栓塞栓症では強めにコントロールする。PT‐INR1.5以下では無効。」などとされる(甲B38・『今日の治療指針2002年版』より「抗凝固療法」)。
使用の際の考え方としては,「ワーファリンについては投与量を注意しながら加減するので,実際に大量出血が生じる頻度は低い。ワーファリンを服用している高齢者で皮下出血などが目立つことがあるが,PT-INRが目標域にあるなら副作用とは考えない。」と指摘されている(甲B39・『循環器治療薬ファイル 薬物治療のセンスを身につける』より「ワーファリン」)。
具体的な使い方については,「まず目標とするPT-INRを意識」し,「高度の抗凝血効果:PT-INR2.0〜3.0,軽度の抗凝血効果:PT-INR1.6〜2.4」と定める。「中途半端なワーファリン治療を行なうと後悔することが多い。PT-INR2.0以上であれば,イベントが起きてもしかたがないとあきらめられる。上記のPT-INRの設定のPT-INR2.0〜3.0とは常に確実に2.0を上回るという意味に取り,1.6〜2.4は基本的に2.0を上回るが,ときに1.8とか1.9になることがあってもよしとする……というふうに理解する。」「PT-INR2.0を下回ると急激に血栓塞栓症のリスクが増すことに留意したい。」とされている。(甲B39)。
(2) 導入時(治療域到達まで)の投与量
ア ワーファリンの効果発現時間
ワーファリンは,ビタミンK依存性の凝固因子(U,Z,\,]因子)の合成を阻害して抗凝固作用を発揮する。ワーファリンの作用部位は肝臓であり,血液中の凝固因子に対して直接作用するわけではない。また,ワーファリンは凝固因子の新たな生成は抑制するが,分解速度には影響を及ぼさない。
すでに血中に存在している凝固因子が代謝されるまでに時間がかかる。とくにU因子(プロトロンビン)の半減期が67〜106時間と長いため,抗凝固作用は12〜24時間目に発現し,十分な効果は36〜48時間後に得られる(甲B36・『Warfarinの適正使用情報Q&A』より「効果発現時間と持続時間」)。抗血栓作用が出現するためにはプロトロンビンの減少が必要なため,さらに48〜72時間の遅れがある。
イ ローディングドース法とデイリードース法
ワーファリンの導入方法には二つの方法がある。初回に大量を投与し,数日を置いて凝固能を測定し,その結果から維持量を決定するローディングドース法と,初めから常用量に近い投与量を数日続け,凝固能をみながら維持量を決定するデイリードース法である(甲B34・「Warfarin療法への導入」)。
デイリードース法は,初日より1日5〜6mgを毎日一回投与し,PTまたはTTを毎日測定して数日〜1週間をかけて維持量へ移行する方法である。
ローディングドース法は,初日に15〜30mgを投与し,36〜48時間(降下発現までの十分な時間)をおいてPTまたはTTを測定し,その結果から凝固能が治療域に入ったことを確認し,患者のワーファリンに対する反応性をみながら維持量を毎日一回投与する方法である。
両者のうち,デイリードース法によるほうが,急激な凝固能低下による出血と,プロテインCの低下が先行することによる凝固亢進状態を招く危険性が低く,望ましいとされている(甲B34)。
3 被告の義務違反
(1) ワーファリンの投与量
診療録及びレセプトによると,被告病院は智亮に対し,3月19日から3月21日まで,ワーファリンを1mg(1錠)を1tab/日夕食後に,3月22日は2tab/日を夕食後に,それぞれ投与したと思われる(乙A1・37頁「処方歴」,38頁「投薬履歴」)。ただし,いずれもカルテの記載上は,智亮が亡くなった以降も投与されていることになっており(3月23日,24日も投薬したことになっている),正確なところは定かではない。
【求釈明】
@ ワーファリンの正確な投与時刻
A
その他投薬暦食事の内容
(2) 治療域に達していない
3月19日(入院当日)の血液検査結果によるとINR1.26,TT34.6%であった。ところが,3月22日の血液検査においても,INR1.20,TT41.2%であった(乙A1,23頁,43頁)。
被告病院は,ワーファリンを投与していたが,治療域は確保されていなかった。
【求釈明・証拠提出】
診療録上,3月19日及び3月22日の採血時刻,検査結果の判明時刻が明らかでないので,釈明及び裏付けとなる証拠の提出を求める。